本社近くの一幕
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ようやく大鬼門が解放された。
 
夜も煌々と灯るビル郡の光とは違う明るさがある。
普通の人間には見えない霊的なエネルギーが
広く高く一帯を包んでいる。
 
朧に漂う犬の式は、その中心、地流本社を仰ぐように見上げた。
 
(8月の空に雪たァ、感心しやせんね)
思うだけで眼前を歩く契約者へは特に声をかけない。
ビルを出た時、チラリと上空を見た闘神士の顔つきは同様の思いを浮かべていたからだ。
もっとも、この現象は計画通りのこと。
なので、式神は肩を竦めて言った。
『当分、えあこん使わずに済みそうですぜ』
「…」
タイザンは真直ぐ前を向いたまま応えない。
帰宅中の街なかであることを配慮した訳ではなく
仕事場のフロアでも、契約式神の含みある発言を黙殺するのは良くあることだった。
まして、不快を気取られたと感付けば尚更。
 
時刻は21時。
 
昨日はショウカクと連れ立って料亭へ出向き、ガシンの報告を聞いた。
そのため強引に定時で帰ったので、今日の仕事量を不安に思っていたが
終電を逃さず帰宅できそうだ。
 
--しかし ショウカクに衣服と食事を与えるのは痛快だった。
思い出し、タイザンが酷薄に口元を歪める後ろを、白い影はゆらゆらとついて行く。
傘は持たずにいたが、雪だ。
濡れる肩が気になる前には駅につくだろう。
 
歩道を行くと。
路地と言うには細すぎるビルの隙間から、
今まで帰宅時に感じた事のない気配がした。
建物の赤茶色も黒く滲み染まるような、伏魔殿では馴染みの気配。
 
オニシバはそちらを向き、タイザンは眉を顰めた。
大鬼門を解放した際に溢れ出たのを討ち漏らしたか。
またはその余波に魅かれこの場に湧いたか。
 
暗がりに妖怪の類いが、潜んでいる。
 
 
タイザンはそ知らぬふりでその場を通り過ぎた。
ミカヅチセキュリティは本社付近も巡回しているはず。
『ほうっておいて良いんですかい』
「討伐部の仕事ではない」
今度は即答で返す。
オニシバはいちど路地を振り返っただけでそれ以上何も言わなかった。
(旦那が本来の生業を律儀にこなすような闘神士なら、いま雪に降られちゃいませんやね)
良い、悪いではなく。
この契約者の行動、進む路は、とても、言い方は悪いが、…とてもおもしろい。
大真面目な本人に言えば怒り出すのは目に見えているので決して言わないけれど。
 
 
交差点を折れるとすぐに駅だ。
オニシバが神操機に戻ろうかと考えた時、
「!」
ドン、とタイザンが何かにぶつかった。
 
「うわっ!」
角を曲り走って来た子供だ。
畳まれたままの赤と青の2本の傘を、濡れた地面に転がす。
傘と同じように転がりそうだった子供は、
タイザンが反射的に腕を取り支えたので、溶け切った雪に濡れずに済んだ。
「おい」
「すみません!」
子供は慌ててあやまり、傘を拾う。
タイザンは咎める口調で苦々し気に
「走ったまま飛び出すな。危ない。」
言うと、子供は重ねて素直に詫び頭を下げる。
「ごめんなさい、急いでて」
「こんな刻限に何をしている」
子供がひとりでうろつくには遅い時間だ。
干支を一巡りもしていないだろうほどの年頃の少年は
物おじせず、視線を通りの奥へ向け、
「塾へ、姉を迎えに」
ギュッと赤い方の傘を握って答えた。
「ああ」
現代の子供は遅くまでよく勉強をする。
納得したタイザンを見上げた子供は
「あの、ミカヅチ学習塾ってこの先ですか」
ついでのように訊ねてきた。
一度来たけど夜だとよくわからなくて、と小さく言い訳する。
 
ミカヅチグループは全く手広くやっていて、
タイザンも形ばかりはと経営項目を暗記したものの、
平社員はともかく、他3部長までもが社の傘下を全く心得ておらず、
憶え損か!と会社案内を床に叩き付けたのも数年前。
しかし子供の問いに、そんな記憶を掘り起す必要はなく、
今その看板の前を通って来たタイザンは頷き告げた。
「この先の鰕色のビルだ」
「えび?」
「この先の赤茶色のビルだ」
「ありがとうございます!」
若い連中はろくでもない奴揃いだと思っていたが、部下どもがダメすぎただけか。
と、頭を下げる好ましい礼儀正しさを高く評価するタイザンだった。
 
顔を上げた少年は、すぐに傘を抱え駆け去る。
雪のせいで舗装は濡れ足場は悪い。
「滑るぞ」
好意からの注意に、一度だけ振り向いた少年は速さをおとし
「ハイ」と返したが駆けることを止めなかった。
タイザンは暫しその背を目で追う。
傘を持っているなら、させば良いのに、子供というやつは。
 
『似てやしたね』
「バカな」
オニシバの、面白がるような呟きを、タイザンは鼻で嘲い一蹴した。
「ガシンがあれくらいの頃は、もっと憎たらしい…」
『ガシンの兄さんとは言ってやせんぜ』
「…」
間を置き、軽く苛立つのを隠しきると続けて
「お前が知っている子供なぞ他にいないだろう」
言い負かして会話を終わらせるつもりでいたのに、
オニシバは平然と、むしろ契約者の勘違いを正すかのように丁寧に言った。
『旦那も、小さかったじゃありやせんか』
予想しなかった返答に、タイザンはひと呼吸置き、瞬いた目を吊り上げる。
「なにが言いたい」
『ですから、ガシンの兄さんに似てやしたね、って話で』
「……」
契約者が苛立に任せ懐の神操機をギギギと握力限界まで握った。
オニシバは痛くも痒くもなかったが、首をすくめて口を閉じる。
程々にしておかないと降神した時、腹いせに耳や尾を攻撃されかねない。
 
 
その時だった。
濃く妖しい気配が空気に混じるのを背に感じ、
闘神士と式神は同時に後方を見て、視線を交わした。
これは先程素通りして来た妖怪の気だ。
 
タイザンは鋭く舌打ちし、弾かれたようにもと来た道を駆け戻る。
夜でも明るい街は降りしきる白い雪でさらに明るく
前方のビルの隙間から立ちのぼるドロリとした霊気がハッキリと視えた。
 
通行人の悲鳴、異形を遠巻きに立ちすくんだ人間も
次々に逃げ出しタイザンとすれ違う。
 
--やはり。
 
禍々しく、黒く長い手足の妖怪が、さきほどの子供を襲っていた。
巻取られているのは、腕。
タイザンは顔を歪め腹立たしげに吐き捨てる。
「おれのせいか」
『においがついちまった様ですね』
妖怪の中には闘神士に庇護されようと寄ってくるものもいる。
伏魔殿には食料を調達してくれる懐こい妖怪もいた。
しかし闘神士がその妖怪より弱ければあっという間に捕食対象だ。
タイザンが掴んだせいで、悪戯に魑魅を挑発する程度の「気」をほんのひと時、
腕に纏ってしまった、あの少年のように。
「これからは子供がぶつかっても地面に転がしておこう」
『そんな極端な』
 
少年は必死に逃れようとするが、闇黒く煙る妖怪の手は巻き付いて離れない。
側では、姉らしき少女が自分の傘で果敢に妖怪を叩いている。
赤い傘が、妖怪を打つ。
「お姉ちゃん!」
その光景は。
 
タイザンは無表情のままに目を細め姉弟を見た。
瞬時に脳裏を掠めた記憶は、今は深追いしたくないと思う。
元凶が感傷の情を持つなど、馬鹿げている。
 
自嘲すれば不意に、背に浮かぶ影を意識した。
オニシバは沈黙を守ってただ浮かぶばかり。
こんな時は悟く一切口を挟まずにいる式神だと、過去に幾度思ったかしれない。
 
--それに妖怪を前にして己が闘神士の力量、戦い方をよく心得ている。
そう、降神するまでもない。
…とはいえ見物を決め込んだ我関せずの態度も癇に障る。あとで言って聞かせねば。
 
タイザンは、指に挟んだ闘神符を無言で投げた。
 
妖怪の正面で、キン、と小気味良い音とともに符が発動し
浮かび上がる『撃』の文字。
文字と同時に打ち下ろされた赤い傘はそれまでとは違った効果を示し
妖怪は耳を刺すような苦鳴を上げ、黒い腕がキュルルと巻き戻った。
 
放り出された弟を、姉が急ぎ助け起こす。
何が起こったのかと、ふたりは身を竦めて苦しむ異形を見上げたそこへ
間髪置かずに、次の符が八卦図の中心に『封』と輝きをもつ。
たちまち妖怪はあとかたもなく、文字とともに消え去り、
姉弟は呆然と何もいなくなった場所を見ていた。
 
タイザンはそのまま立ち去ろうと思ったが、ふとビルの看板に気付く。
ライトアップされた文字は学習塾。
多くの子供が通っているのだろう。
なにしろ世界のミカヅチグループの名を冠している塾だ。
妖怪の出て来た路地へ歩み寄ると、もう一枚取り出した符をかざした。
赤い闘神符は淡く輝き『浄』と成り、高く澄んだ音を発し霧散する。
 
『…ダンナ、完璧じゃないですかぃ』
「なぜ意外そうに言うのだおまえは」
これでよい、と通りを引き返そうと踏み出した所へ、
さきほどの少年が立ちふさがる。
 
妖怪に襲われたばかりだと言うのに、気丈な事だ。
少年は、何か言いかけて口ごもった。
礼を言おうとしたが、自分を助けたのが目の前の残業帰りの
会社員なのかどうか判断できない、どう聞けば良いかもわからない。
そんなふうに見えた。
 
姉が側に寄り添うと、子供は気を取り直し、
タイザンに向かって青い傘を差し出す。
「これ、雪、やみそうにないから、使ってください」
 
(礼の代わりのつもりか)
何事も無ければ今頃は電車の中だったろうに、
気づけばすっかり肩も髪も雪で濡れてしまっている。
しかしタイザンは表情を変えず、傘を差し出す小さい手を制した。
「必要ない」
短く言い置くと返事を待たずに背を向けその場を離れる。
 
助けたと思われてはたまらない。
 
何しろ、妖怪を見逃したのも、子供が襲われたのも、雪が降っていることすら
原因はタイザン自身にあるのだから。
----それに、あの傘は。
 
『小せぇ坊っちゃんがしょんぼりしてらぁ』
背中合わせに浮かんだ式神がのんびりした声で告げたので、
タイザンは忌々し気に眉間に皺を刻む。
「どうしろと言うのだ」
『それァ、ひと言、嬢ちゃんの傘は壊れちまってるだろ、って教えてやれば』
「……」
幾分か早足になった闘神士の背中に浮かび、
濡れた上着を眼下にオニシバは口の端を引き上げた。
 
『にしても、あの浄化はさすが旦那だ。塾とやらにァ、もう妖怪は近づけませんぜ』
オニシバが完璧だと評したのは事実で、長い年月共にいても、ついぞ見なかった呪だ。
素直に感心したのだが、タイザンは当然という態度で
「仕事だからな」
と、にべもない。
『討伐部の仕事じゃねぇと聞いた気がしやすぜ』
「何を言ってるんだ。闘神士の仕事だろう。」
『…』
オニシバが黙ったので、タイザンは勝ち誇った顔つきで黙々と駅を目指したが
付き従う犬は茫洋と雪を落とす空を眺めていた。
 
一向に止む気配はない。
 
(…それでも、雪に降られるんスねェ)
そうだ、このお人は、本来の生業を心得た上で。
 
進む先がどこだろうと、あっしにとってその場所は、
けれん味のない正しい進路でさァ。
 
オニシバは思い至った答えに満足し、
闘神士の上着の内側へ戻る事にした。
 
 
 
 
帰ったらきっと、上着を乾かすためあれこれと指示されるだろう。
シワにならないよう、型くずれしないように乾かすには…
などと考えて、いくら契約者の先を一番に考えるのが霜花の性分でも
これは違う、と自分でもちょっと呆れながら
 
すぐ先の、その時まで、神操機に意識を沈めた。
 
 
 
-------- おわり
 
 
 
             〈戻る〉
 
 
 
 
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